釣りは、「釣れた」ではなく、「釣った」にならなくちゃ一人前じゃない。
みたいな言い方をすることがありますよね。
でも、誰でも最初は「釣れた」がスタートです。
あなたは今、
「釣れた派」ですか?
「釣った派」ですか?
どちらが楽しいと思いますか?
「釣れた」と「釣った」。どちらが楽しいか脳科学で検証
こんな問いは、愚問ですよね。
「釣れた」でも「釣った」でも、どちらでも釣りは楽しいものです。
それでも、「釣れたんじゃない!釣ったんだ!」と、主張される方もいます。
でも、小学生の低学年のころ、親に連れられて、訳もわからず偶然に釣れたお魚ちゃん。
あの感動と驚きは、まさしく「釣れちゃった」からきたものです。
そこで、
「釣れた」の楽しさ
「釣った」の楽しさ
のふたつの違いを分析してみました。
書籍『「こころ」はいかにして生まれるのか』から釣りを考察してみる
私事ですが、私は脳科学についての本を読むことで、日頃の人間関係の悩みを軽減しています。
気分のいい時、悪い時などなど。
これらは、脳の扁桃体の活動、脳内の神経伝達物質(ホルモン)の分泌状況、それによる交感神経、副交感神経のバランスで左右されます。
魚釣りがなぜ楽しいのかも、脳の仕組みから解き明かすことが可能と感じました。
今回はこの
『「こころ」はいかにして生まれるのか』
という本を読んで、「釣った」と「釣れた」の違いについて考えてみます。
ツッコミ、喜んでお受けします(笑)
脳の報酬系が釣りで活性化する!
脳には「報酬系」という領域があります。
期待、希望、喜びを感じると報酬系にドーパミンが放出され、「快感」を得られます。
ときには苦痛や恐怖もかえりみず、快感を求めるのである。この快感こそは、「報酬」の最たるものにほかならない。
「こころ」はいかにして生まれるか より
釣り○○たちはまさにこれです。釣果という報酬(快感)に抗えない人たちです。
ネズミの脳の快感を感じる部分(中隔)に電気刺激を与える。ネズミ自身がレバーを押すと電気刺激される装置を作ると食べることよりも寝ることよりも、体力の限界を超えてレバー押しする。
「こころ」はいかにして生まれるか より
釣り中毒の人はこれです。中毒なのが「釣り」でよかった。
釣れた派を肯定してみる
『「こころ」はいかにして生まれるか』の中に、こんな記述があります。
実際にはさほど大きな報酬ではなくても、意図していなかったときに得られた報酬は、腹側被蓋野のドーパミン作動性ニューロンを興奮させる。
不確実性が報酬に影響を与えるのは、「意外な」ときに得られた報酬を大きく評価したほうが、新たな餌場など、報酬を得られる機会を増やすことにつながるからだ。
「こころ」はいかにして生まれるか より
この、「以外な」時に得られた報酬。というのが、まさに「釣れた」「釣れちゃった」時だと思います。
本などで知った定石とも言えるポイントを外して、釣友からは、「そこは絶対釣れないってば」なんて言われるようなポイントで、
自分でも「そうだよな、ここは無理だな」と感じながら狙ってみたら…
嘘みたいに大物が釣れちゃった!
という時、ドーパミン作動性ニューロンは大興奮する!
つまり、不確実性のある釣りのほうが快感指数が高い。
私のような下手くそが、間違ってデカいの釣った時のほうが、嬉しいわけです。
ギャンブル性が高いほうが、「やめられない度」が高いってことです。
穴狙いというか。
釣れるのが分かっているとやる気が出ないわけ
意外性からくる釣果が「報酬系」を活性化することが分かりましたが、そんな人は「釣った」に魅力を感じない人だったりします。
これは、実は私のことなのですが(汗)。
釣りの実力もないくせに、こんなこと考えてしまうのです。
舟釣りはやりませんが、
9割り方、お膳立てされた状態で釣りしても楽しくないじゃん。ていう感覚です。(考え浅くてすいません。)
動物やヒトは、確実に得られると決まっている報酬に対しては、それが実際には大きなものであっても、報酬をあまり大きなものとは感じない。
「心はいかにして生まれるか」より
これが、お膳立てされた釣りに意欲が上がらない理由だと思われます。
私、なんだか「釣れた派」に有利な資料だけを引っ張り出してきているような…。
そういうわけではありませんよ(笑)
給料日に比較的まとまったお金が入っても、給料日ごとに歓喜し、興奮する人はいないだろう。給料はその金額も、入ってくるタイミング(給料日)もわかっているからだ。しかし、期待していなかった臨時収入には、たとえそれが少額であっても、大きな喜びを感じるものだ。スポーツやゲームなどでも、絶対に勝てる相手に勝ってもさしてうれしくないが、強敵を倒したときの喜びは大きな報酬になる。
「こころ」はいかにして生まれるか より
この本の一説を釣りという遊びに置き換えるなら、
うじゃうじゃと、魚の密度が120%のイケスのような釣り場に立つ心境は、給料日ごとに歓喜、興奮する人がいないのと同じ感覚とも言えます。
あなたは、どうですか?
そういう状況でも、ワクワク楽しく釣りができる人は、またひとつ上のレベルのマインドを持っているのかもしれませんね。
「釣ったのだ」派を肯定してみる
「釣れたんじゃなく、釣ったんだ」のほうが釣り師としてレベルが上なのは間違いありません。
「釣れた」より「釣った」は能動的です。
「釣れた」の喜びが予想外の報酬からくるのに対して、
「釣った」の場合は、
釣った結果が報酬ではなく、
実は、その前、
魚を釣った後よりも、釣ったに至るまでの過程(プロセス)で快感を味わっているようなんです!
自分のとった推測や行動(ポイント選びや仕掛けの工夫など)が、正解かどうか「期待」する時にドーパミン作動性ニューロンが活動すると考えられます。
「得られるかもしれない報酬」を期待している時、ドーパミンがじわじわと分泌するのだそうです。
そのためにああでもないこうでもないと努力をする。
予想外の報酬に対する喜びではなく、
報酬を自らの手で引き寄せるための行動がプラスされているのが「釣った」になる。
「釣った」と「釣れた」は、性格の違いからくる?
と言っても、
道具を工夫し、ポイント選びも釣り方を極めても、
「こうやったら釣れた!」と言って、ずっと「釣れた派」でいたい人もいれば、
自分の技量で「釣った」ということにこだわる人もいます。
メディアに出たり、トーナメントに出たりと、他人に教える立場になったりすれば、「釣れた」では困りますよね。
「釣った派」の主張としては、
「釣った」の前に、
「他の人より」というふりが実はついているような気がします。
「他の人には気づかない何かを知っているから、自分だけが釣れた。」と。
「釣った派」は誰か、アピールする第三者が必要なのかもしれません。
周りの人より魚を釣る気持ちよさは、偶然ではなく、実力で釣ったと言わなきゃ自慢できないですもんね。
実は、釣った派のキャッチ後はドーパミン作動性ニューロンは抑制される
お猿さんを使った実験をこの本では紹介しています。
- 猿に、ただジュースを与えると、ドーパミン作動性ニューロンが発火する。
- 緑のランプを点灯させてからジュースを与えると、最初は飲んだ時にドーパミン作動性ニューロンが発火するのだが、
やがて、「緑ランプ→ジュース」を学習すると、
- 緑のランプが点灯した時にドーパミン作動性ニューロンが発火するようになり、ジュースを飲んだ時には反応しなくなる。
釣りに例えるなら、
- 最初は、マグレで釣れて嬉しい!
ウキ釣りを覚えると、
- ウキがツンツンと動いて釣れたことが嬉しい!!
けれど、
やがて、
- ウキがツンツンきた時にはワクワクするが、釣り上げた時の喜びは薄れてくる。
ある行動をして得られる報酬が、しだいに予測可能なものになっていけば、それがどんなほうしゅうでも報酬予測誤差はゼロに帰着する。これが「飽きる」ということだ。
「こころ」はいかにして生まれるか より
「釣った」を続けていくと「飽きてしまう」ということになるわけですが、
釣りを舐めてはいけません。
釣りはそんなに自分の思い通りにはいきません!
そんな自分の思惑通りにはいかないものなのです。
あなたが「釣ったんだ」と息巻いても、それは「釣れた」のです!
だってあなた、釣った時、嬉しかったでしょ?
いかがでしたでしょうか?
脳科学からの「釣った」と「釣れた」の検証でした。
コメント
こんにちは。今年は夏以降、大雨で川が濁流になり、あまり釣りに行けず、もう禁漁も近く、残念な年です。ただ最近は、通年ニジマスOKの川もあり、冬まで寒さの限界まで行きたいな、と思いつつも、トシのせいか、いざとなると気力が湧かないかも。
私も釣れた派です。特に、魚がいるかいないかわからない初めての川で、突然釣れたときの感激は忘れられません。こんな場所で生きているんだ、と。魚にも川にも、感謝です。そんな釣りが好きなせいか、連日ボウズも多いです。「結果重視派」からは、いつしか相手にされなくなります。そのほうが、かえって楽です。
こんにちは、flyukuleleさんも腰が重いですか(笑)
私もです。
釣りに行かずに書ける、こんな記事を書いている有り様です。これじゃ釣ったも釣れたもないですよね。